病気で亡くなった天才科学者の母が娘に遺したものは、母そっくりの家事アンドロイドだった。父と母と娘。愛に溢れた家族の物語。
長さ50分ほどの声劇台本です。
この台本は作者の遠野太陽さんにご許可を頂いて掲載しています。
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溺れるイチゴとママの嘘
遠野太陽 作
[登場人物]
万莉(まり):中学生の娘。
光雄(みつお):父。公務員。
彩香(あやか):母。優秀な科学者
サヤカ(彩香と2役):彩香そっくりのアンドロイド。
本文中のMはモノローグを表す記号です。
[以下本文]
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■1
万莉:(M)3月1日。世界中の人達にとっては何でもない一日で、私にとっては少しだけ特別な一日が始まった。ベッドから抜け出し、階段を降りて居間に向かうと、お父さんがテーブルで新聞を読んでいた。
万莉:おはよ。
光雄:おはよう、万莉。
サヤカ:おはよう、万莉。
光雄:珍しいな。今日は自分で起きられたのか。
万莉:たまにはね。
サヤカ:はい、コーヒー。
光雄:ありがとう。
サヤカ:万莉、誕生日おめでとう。
光雄:おめでとう。
万莉:知ってたの?
サヤカ:もちろん。
光雄:今日で15歳か。
万莉:うん。
光雄:あ、それで今日は早く起きたのか。興奮して目が覚めちゃったのか?
万莉:そんなんじゃないよ。子供じゃないんだから。
サヤカ:はーい、早く座って。今、牛乳入れるわね。
万莉:うん。
サヤカ:はい、どうぞ。
万莉:ありがと。
光雄:それじゃ、いただきます。
万莉:いただきます。
万莉:(M)いつもの朝ご飯。テレビを観ながら、どうでもいいこと話す。
サヤカ:今日は夕方から雨が降るみたいね。
光雄:ああ、じゃあ傘持っていかなきゃな。万莉も傘忘れるなよ。
万莉:私は学校に置きっぱなしだから大丈夫。
光雄:ちゃんと毎日持って帰ってこないと。
万莉:朝は晴れてるから大丈夫よ。あ、今日の占い始まるからチャンネル変えるね。
光雄:うん。
万莉:もう始まってた。やった。魚座1位だ。『思いがけないプレゼントが貰えそう』だって。
光雄:そりゃ誕生日だからな。
万莉:お父さん、プレゼントはもう買ってあるの?
光雄:まぁね。
万莉:なに?
光雄:秘密。
万莉:推薦で高校決まったし。
光雄:ああ。万莉はお母さんに似て優秀だからな。
万莉:いい子にしてるし。
光雄:そうだな。
万莉:期待してもいいのかな?
光雄:ほどほどにね。
万莉:超期待してる。足りなかったら今日の帰りにプレゼント追加してもいいからね。
光雄:わかったよ。
サヤカ:光雄、寝癖なおってないわよ。
光雄:そう? さっき直したんだけどな。
サヤカ:後頭部のいつもの場所が跳ねてる。
光雄:ここか。わかった。後で直すよ。
万莉:ご馳走さま。
サヤカ:万莉、また茶碗に御飯が残ってる。
万莉:えー。
サヤカ:ちゃんと食べなさい。
万莉:はーい。
万莉:(M)いつもの家族の日常。私がいて、お父さんがいて。でも、そこにお母さんはいなかった。
■2
光雄:(M)妻、彩香の病気が発覚したのは、去年の春。万莉が中学3年生になってすぐの頃だった。命をロウソクの火に例えるならば、百年に一人の天才科学者と呼ばれた妻の命の炎は、平凡な自分には考えられないほどの勢いで燃えていたのだろう。その頭の回転に体が悲鳴を上げたのかもしれない。彩香の病気は何百万人に一人という珍しいもので、治療法は見つかっていなかった。余命半年。医師の宣告は残酷だった。
彩香:半年か。180日。4320時間。それが、私に残された時間。
光雄:彩香は働きすぎだから体がSOSのサインを出してくれたのさ。しばらく療養すれば、また元気になれるよ。
彩香:自分の体のことは自分が一番よくわかってる。たぶん、もう手遅れ。
光雄:そんなことないって。
彩香:せめて万莉が成人するまでは生きたかったな。
光雄:彩香……。
彩香:ごめんね。光雄。
光雄:なんで謝るの。
彩香:私、仕事ばっかりで。光雄と結婚してからも妻らしいこと全然出来なくて。
光雄:気にすることない。
彩香:もっと光雄と一緒にいたかった。万莉と一緒にいたかった。
光雄:平凡な幸せを望んで僕と結婚してくれたこと、僕は今でも感謝してる。それに彩香の研究が沢山の人の命を救ってること、僕も万莉もちゃんとわかってる。だから、少し休もう。そうすれば、きっと元気になれるから。
彩香:研究は辞めない。
光雄:彩香!
彩香:聞いて、光雄。大事な話なの。
光雄:……なに?
彩香:私はもう長くない。
光雄:だから!
彩香:私が死ぬことは決定事項なの。
光雄:そんなこと言わないでくれ。
彩香:落ち着いて。私はこの残りの命を……万莉のために使いたい。
光雄:だったら研究を辞めて、ずっと家にいればいい。万莉だってそれを望むはずだ。
彩香:それは出来ない。
光雄:どうして。
彩香:万莉はまだ14歳よ。こんな母親でも、急に私がいなくなったら、どれだけあの子が悲しむか。だからね。
光雄:なに?
彩香:万莉のために私の代わりを遺(のこ)しておきたいの。私ならそれが出来る。
■3
万莉:(M)お母さんが退院したのは、5日後のことだった。少しだけ痩せたお母さんは、仕事を休んで、溜まっていた家事を片付けていた。
万莉:ごめんなさい。私がやっておかなきゃだったのに。
彩香:いいよ。万莉は勉強頑張ってるし、今も手伝ってくれてるし。
万莉:体、辛くない? 疲れてない?
彩香:心配しすぎよ。
万莉:だって……。
彩香:万莉、ありがとう。ハグしていい?
万莉:いいよ。
彩香:(抱きしめて)万莉〜、大好き〜!
万莉:きゃあああ。
彩香:(くすぐって)可愛い可愛い可愛い可愛い…。
万莉:(笑)やだ、くすっぐたい。やめて(笑)
彩香:(笑)
万莉:も〜。
彩香:……万莉。
万莉:なに?
彩香:お母さん、明日から仕事行くね。
万莉:体、大丈夫なの?
彩香:うん。もう元気だよ。
万莉:早く帰ってきてね。
彩香:お父さんが仕事の後、迎えに来てくれるから。
万莉:そっか。じゃあ晩ご飯は一緒だね。
彩香:そうだね。
万莉:(M)そう言って、次の日からお母さんは仕事に出掛けた。お母さんがいつもどんな仕事をしているのか、私は知らない。
光雄:お母さんの研究は世界中の人々を幸せにしているんだよ。
万莉:(M)お父さんはいつも誇らしげにそう言っていた。世界中の知らない人なんてどうでもいい。お母さん、もっと私と一緒にいてよ。その言葉を、私はずっと我慢していた。
■4
光雄:ただいま。
彩香:ただいま。ごめんね、万莉、遅くなって。
万莉:大丈夫。勉強してたから。
彩香:ご飯食べた?
万莉:まだ。
彩香:待っててくれたの?
光雄:一緒に食べたかったんだよな。
万莉:うん。
彩香:ごめんね。今、すぐ準備するから。
万莉:(M)最初は早かったお母さんの帰りは、日に日に遅くなっていった。お父さんはお母さんの研究所でお母さんの仕事が終わるのを待って、一緒に帰ってくる。私は一人で、お父さんとお母さんを待つ日が多くなった。
光雄:もうすぐ夏休みだな。
万莉:うん。後3日で終業式。
彩香:そっかー。早いね。
万莉:終業式が終わった後、レストラン行きたい。
彩香:その日は病院なのよ。ごめんね。
万莉:まだどこか悪いの?
彩香:どこが悪いかわからないから検査するんだって。
万莉:お母さんにもわからないの?
彩香:専門外だからね。
万莉:お母さん、疲れてない?
彩香:ちょっとね。でも大丈夫。
光雄:今日は早く寝ろよ。
彩香:はいはい。万莉、後で一緒にお風呂入ろっか。
万莉:うん!
光雄:お母さん疲れてるんだからな。お風呂で遊んじゃダメだぞ。
万莉:わかってるよ。
彩香:ねー。
万莉:ねー。
光雄:(笑)
万莉:(M)夏休みになったら、もっとお母さんと一緒にいられる。私は、そう思っていた。
■5
彩香:(重いため息)
光雄:無理するなって言ってるのに。
彩香:無理、するよ。
光雄:僕が何も言っても無駄か。
彩香:もう少しなの。お願い。もう少しだけ。
光雄:わかってるよ。万莉のためだもんな。
彩香:……光雄。
光雄:何?
彩香:大好き。
光雄:……うん。
彩香:愛してる。
光雄:……どうしたんだよ?
彩香:ちゃんと言っておきたくて。ねぇ、『ゴースト』って映画覚えてる?
光雄:デミ・ムーアの?
彩香:うん。あと、パトリック・スウェイジとウーピー・ゴールドバーグ。
光雄:アンチェインドメロディ。
彩香:あの曲いいよねぇ。
光雄:いいよなぁ。
彩香:あの物語の中で、モリーが「愛してる」って言うのに、サムはいつも「同じく」って返すのよ。そしてサムは死んだ後に後悔するの。モリーに「愛してる」って言えばよかったって。
光雄:うん。
彩香:私はそんな後悔はしたくない。だから、あなたにも万莉にも、ちゃんと伝えておきたいの。
光雄:僕も愛してるよ。
彩香:……うん。
光雄:僕はパトリック・スウェイジみたいにカッコよくないけどね。
彩香:私もデミ・ムーアみたいに可愛くないわ。
光雄:世界一可愛いよ。
彩香:もうおばさんなのに。そんなこと言うの世界であなただけよ。
光雄:僕だけで十分だろ。
彩香:やっぱりあなた変わってる。
光雄:じゃなきゃ、日本のアインシュタインなんて呼ばれてる女性にいきなりプロポーズしないよ。
彩香:それもそうね。
光雄:そのプロポーズをOKした彩香も相当な変わり者だ。
彩香:否定はしない。
光雄:(笑)
彩香:私、幸せよ。
光雄:うん。僕も幸せだよ。
彩香:……光雄。
光雄:なに?
彩香:ちょっと、泣いていい?
光雄:……いいよ。
彩香:(すすり泣く)
■6
万莉:(M)夏休みが始まっても、お母さんは研究所にこもりっぱなしだった。私はお母さんに会えない寂しさを紛(まぎ)らわすように、夏休みの課題を片付けた。そして、8月のある日。
光雄:ただいま。
万莉:おかえりなさい。あれ、お母さんは?
光雄:今日は遅くなるからって。だから一度戻ってきた。夜また迎えに行くよ。
万莉:私も行く。
光雄:あ〜、夏休みだからいいか。ご飯食べてお風呂入ったら一緒に行こう。
万莉:うん。
光雄:(M)万莉を連れて研究所に着いたのは夜の11時を回っていた。正面玄関で少し待つと奥から彩香が現れた。僕と万莉を見つけて、笑顔で手を振っていた。
彩香:万莉〜、来てくれんだ〜。
万莉:お母さん、お仕事お疲れ様。
彩香:おいで。ハグしてあげる。
万莉:うん。
彩香:(抱きしめて)ぎゅ〜。あ〜、幸せ〜。
光雄:僕にもハグはないの?
彩香:仕方ないな〜。ほら、おいで。
光雄:みんなでやるの?
彩香:ほら、こっち。3人でぎゅ〜。
光雄:(笑)
万莉:(笑)
彩香:私の宝物〜♪
光雄:警備員さんが見てるから。ほら、車乗って。
彩香:はーい。
万莉:荷物持つよ。
彩香:ありがと。
彩香:万莉、夏休みの課題は進んでる?
万莉:ほとんど終わった。
彩香:まだ8月始まったばかりなのに? 凄いな〜。さすが私の娘。
万莉:まーね。
彩香:じゃあ、明日一緒にどこか行こうか。
万莉:え、お休み?
彩香:うん。今日は最終調整に時間かかっちゃって遅くなっちゃった。
光雄:最終調整?
彩香:うん。完成したよ。間に合った。
光雄:そうか。じゃあ……。
彩香:うん。仕事はしばらくお休みする。万莉と一緒に夏休みかな。
万莉:ホント? じゃあ旅行いきたい。
光雄:おい、こら、受験生。
万莉:だって、ずっと我慢してたんだよ。
彩香:そうね。ずっと勉強してても飽きちゃうしね。久し振りに家族で旅行しよっか。
光雄:しばらく家でゆっくりしてろよ。
彩香:わかってる。
万莉:じゃあ、明日は家でのんびりだね。
彩香:そうねぇ。お買い物には行かなきゃなぁ。
光雄:完成祝いする?
彩香:そうねぇ。
万莉:何が完成したの?
彩香:まだ内緒。企業秘密。
万莉:お父さんは知ってるのに。
光雄:最近、新しく出来たケーキ屋さん、行ってみるか。
万莉:うん。あそこ、チョコレートケーキが美味しいって友達が言ってた。
彩香:へぇぇ。そうなんだ。
光雄:バースデーケーキもそこにする?
彩香:それは明日食べて美味しかったら、かな。
万莉:もう手作りはしないの?
彩香:今年の万莉の誕生日に作ったやつ?
万莉:うん。
彩香:手作りのが食べたいの?
万莉:美味しかったよ。ケーキ屋さんに負けないくらい。
彩香:ありがと。
光雄:(思い出して笑う)
彩香:ちょっと光雄、なにがおかしいの?
光雄:いや、あのケーキのこと思い出して。
彩香:美味しいってあなたも言ってたじゃない。
光雄:1グラムもズレないように計量器とにらめっこして、タイマーとオーブンを何度も確認してる彩香がおかしくてさ。
彩香:そこは理系として譲れないところでしょ。
光雄:生クリームとイチゴでデコレーションしたケーキはとってもよく出来ていたのに。
万莉:生クリームが沢山余ってたんだよね。
光雄:そうそう。で、彩香がもったいないからって、余った生クリームをさらに上から絞ったもんだからイチゴが生クリームの海に隠れちゃって。
万莉:名付けて溺れるイチゴのケーキ(笑)
彩香:(笑)今になって思うわ。蛇足ってああいうことを言うのね。
光雄:あれは余計だったよ。おかげで食べ終わって胸焼けしてた。
万莉:でもすっごく美味しかった。
彩香:また作ってあげるね。溺れるイチゴのケーキ。
光雄:いや、溺れさせる必要はないから。普通に作ってよ。
彩香:えぇぇ、ダメなの?
万莉:(笑)
■7
光雄:(M)疲れているはずなのに彩香の調子は良さそうだった。万莉のために続けていた研究が完成した喜びもあったのだろう。万莉に見せる幸せそうな表情に、僕は安堵していた。明日から家でゆっくり出来るんだ。病気だってきっと良くなる。そう思った。しかし、彩香に明日はやってこなかった。
光雄:(M)朝、遅くに目覚めると、彩香は眠るようにして亡くなっていた。救急車ですぐに病院に搬送されたが、彩香の魂は戻ってこなかった。余命半年と宣告されてから、まだ4ヶ月しか経っていなかった。それからのことは、あまり覚えていない。慌ただしく行われる葬儀の間、ずっと泣いている万莉と手を繋いでいた。僕がしっかりしなければ。その思いだけで、立っていられたような気がする。
光雄:(M)全てが終わり家に戻った時には、僕と万莉はずっと黙ったままだった。
万莉:……おやすみなさい。
光雄:お風呂は?
万莉:今日はいい。
光雄:……そうか。じゃあ、おやすみ。
光雄:(M)明日になったら、これからのことを万莉と話さなければ。そう思っていた夜、眠れなかった万莉が僕の部屋を訪れた。
万莉:まだ起きてる?
光雄:起きてるよ。
万莉:少し、おしゃべりしてもいい?
光雄:うん。座って。
万莉:ありがと。
光雄:どうした?
万莉:お父さんに聞きたいことがあるの。
光雄:うん。
万莉:お母さん、いつから病気だったの?
光雄:病気がわかったのは4月の入院の時。
万莉:治らない病気だったの?
光雄:難しいってお医者さんに言われてた。
万莉:どうして言ってくれなかったの?
光雄:万莉の受験勉強を邪魔したくなかった。
万莉:ちゃんと言ってほしかった。そしたら、家のこととか、もっとちゃんとやったのに。
光雄:お母さんと相談して、そう決めたんだ。ごめんな。
万莉:お仕事、休めなかったの?
光雄:今の研究が万莉のためになることだって言ってた。残りの寿命を万莉のために使いたいって。
万莉:何をしてたの?
光雄:たぶん明日わかるよ。今日、研究所のスタッフに聞いた。お母さんが「完成した」って言っていたの、覚えてるだろ?
万莉:それって、私やお父さんと一緒にいることより大事なことだったの?
光雄:それは僕も言ったよ。残り少ない命なら、家族との時間を大切にしようって。でも、お母さんは『これからの万莉のために、残りの時間を使いたい』って譲らなかったんだ。
万莉:わかんないよ。お父さんはそれで平気だったの?
光雄:僕の愛する彩香が、愛する娘のために何かを残そうとしている。それを止めることは出来なかった。
万莉:ずっと病院に入院してたら、もっと長く生きられた?
光雄:わからない。でもね、お母さんから仕事を奪ってしまったら、きっと、生きていても死んでいるように感じるんじゃないかな。入院してベッドでおとなしくしている彩香は想像出来ないよ。人一倍生きることに全力だった人だから。死ぬまで研究を続けられたお母さんは、幸せだったんじゃないかって思う。
万莉:本当に?
光雄:……うん。
万莉:お父さんは、お母さんと結婚してよかった?
光雄:当たり前だろ。そうじゃなきゃ、万莉にも出会えなかった。万莉もお母さんの娘でよかったと思うだろ?
万莉:うん。
光雄:お母さんのこと、好き?
万莉:大好き。
光雄:だったら、お母さんの期待に応えて、勉強頑張らなきゃな。
万莉:うん。
光雄:じゃあ、今日はもう寝よう。
万莉:うん。……お父さん、ハグしていい?
光雄:いいよ。おいで。
万莉:(抱きついて)おやすみなさい。
光雄:おやすみ。
■8
光雄:(M)翌日、研究所のスタッフが家に訪れた。車から降りてきた人を見て、僕は言葉を失った。いや、人ではない。彩香そっくりのアンドロイドだった。滑らかな動きで車から降りる姿は人間と変わりなく、顔も、姿形も、彩香そのものだった。ただ一つ、決定的な違いは髪の色が青いこと。まるで、対戦ゲームの2P(ツーピー)カラーのようだった。
サヤカ:光雄、初めまして。
光雄:えええええ!
光雄:(M)彩香と同じ声で彼女は喋った。
サヤカ:落ち着いて、光雄。私はサヤカ。
光雄:サヤカ?
サヤカ:はい。万能家事アンドロイド試作機、コードAY103。名前はS・彩香でサヤカ(SAYAKA)です。
光雄:S・彩香? 彩香の代わり……、スペア・彩香で、サヤカか。
サヤカ:これからよろしく。万莉はまだ寝てるの?
光雄:ああ。たぶん。
サヤカ:車に荷物があるから、運んでくれる?
光雄:荷物?
サヤカ:私の充電ケーブルとセルフメンテナンスキット。
光雄:ああ、わかった。
サヤカ:万莉ー、いないのー?
光雄:(M)玄関のドアを開けた途端、目の前に立っていた万莉とサヤカの目が合った。
万莉:……え?
サヤカ:おはよう。私はサヤカ。彩香の代わりでやってきたアンドロイドよ。
万莉:えええええ!
サヤカ:落ち着いて、万莉。大丈夫だから。
万莉:お、お父さーん!
光雄:驚くよなぁ。まさか、こんなにお母さんにそっくりだなんて。
万莉:昨日言ってた、お母さんの研究って、これ?
光雄:これとか言うなよ。サヤカに失礼だろ。
万莉:お父さん、順応早くない!?
サヤカ:握手しよっか。
万莉:やだ、怖い。気持ち悪い。
サヤカ:ほら、早く。
光雄:万莉、握手だって。
万莉:う、うん。
サヤカ:(握手して)これからよろしくね。
万莉:すごい。お母さんの手みたい。
サヤカ:よく出来てるでしょ。
万莉:もっと冷たくて硬いかと思った。
サヤカ:最近の介護用アンドロイドの手も人肌の感触に近づけているのよ。知らなかった?
万莉:うん。
光雄:世界中の人たちを幸せにするお母さんの発明の一つさ。
万莉:サヤカ……。
サヤカ:なに?
万莉:サヤカは、お母さんが作ったの?
サヤカ:そうよ。家事全般をこなすアンドロイドとしてね。もちろん、彩香だけじゃなく、研究所の人たちの叡智(えいち)を結集して私は作られたの。
万莉:そうなんだ……。
サヤカ:料理、洗濯、掃除、なんでもやるわよ。彩香よりも上手に出来るように作られてるから。
万莉:そんなことのために?
光雄:そんなことって言うなよ。僕と万莉のこれからの生活のことを考えて、お母さんが作ってくれたんだ。
サヤカ:万莉は受験勉強、頑張ってるんでしょ?
万莉:勉強もするけど、家事だって、これからはちゃんとやるつもりだった。
サヤカ:私は必要ない? 彩香は、余計なことしたかな?
万莉:……そんなことないけど。
サヤカ:よかった。では、改めて。光雄、万莉、これからよろしく。
光雄:よろしく。
万莉:よろしく、お願いします。
■9
万莉:(M)サヤカはお母さんの偽物。そう思うと、やっぱり少し怖かった。
光雄:お母さんは、お前が悲しまないようにサヤカを作ったんだ。
万莉:(M)そんなこと言っても、サヤカはお母さんじゃない。
サヤカ:おはよう。
サヤカ:朝ごはん、出来てるよ。
サヤカ:万莉、忘れ物はない?
サヤカ:いってらっしゃい。
サヤカ:ほら、また靴を揃えてない。
サヤカ:勉強の調子はどう?
サヤカ:お風呂できたよ。
サヤカ:万莉、おやすみなさい。
万莉:(M)お母さんそっくりの顔で笑って、お母さんそっくりの仕草をして、お母さんそっくりの声で喋って。でも、サヤカはお母さんじゃない。そんな彼女に私はどう接したらいいのか、半年経った今でもよくわからない。
万莉:(M)そして、3月1日。15歳の誕生日。学校から帰ると、家に入るなり甘い匂いが私の鼻をくすぐった。ケーキの匂いだ。一瞬で去年の誕生日の思い出が蘇り、私はキッチンに走った。
万莉:ただいまっ!
サヤカ:おかえりなさい。
万莉:あ……。
万莉:(M)サヤカの青い髪を見て、私の中で膨らんだ何かがパチンと音を立てて割れた。
サヤカ:万莉、どうしたの?
万莉:バカだな、私。お母さんがいるわけないのに……。
サヤカ:万莉?
万莉:なんでもない!
万莉:(M)私はサヤカから逃げるように階段を駆け上がり、部屋のドアを閉めた。
万莉:どうして。どうして、お母さんはサヤカをお母さんそっくりに作ったの? お母さんの代わりなんて、どこにもいないよ。こんな思いをするなら、サヤカなんかいらない。あんなロボット、お母さんの皮をかぶった偽物よ。会いたいよ、お母さん……。お母さん……。
万莉:(M)それからお父さんが帰ってくるまで、私は部屋に閉じこもった。
光雄:万莉、夕食だよ。出ておいで。
万莉:うん。
光雄:どうした? 元気ない?
万莉:もう大丈夫。
光雄:晩ご飯できたから、食べよ。
万莉:うん。
光雄:いただきます。
万莉:いただきます。
光雄:今日の帰りにコンビニに寄ったら、変な店員がいてさ……。
万莉:(M)お父さんはいつもよりよく喋った。
光雄:あ、そういえば、隣のおばさんがさ、サヤカのことを……。
万莉:(M)もしかしたら、元気のない私を見て、無理に明るく振るまっていたのかもしれなかった。
サヤカ:そんなこと言ってたんだ。
光雄:今度会う時は気をつけろよ。
サヤカ:わかった。気をつける。
万莉:(M)仲良く話す二人を見ていると不思議な気持ちになる。サヤカはお母さんと同じように、お父さんのことを「光雄」と呼ぶ。お父さんは、サヤカのことをどう思っているんだろう? お母さんの代わりだと、思っているんだろうか。お母さんがいなくても、もう平気なんだろうか。それならそれで、サヤカの存在意義はあるのかもしれない。だって私には、お父さんにとってのお母さんの代わりにはなれないから。食事が終わり、サヤカが食器を片付けた後、冷蔵庫からケーキを取り出してテーブルに運んだ。
サヤカ:万莉、彩香の手作りケーキそっくりでしょ。
万莉:うそ……。
万莉:(M)生クリームの海にイチゴが隠れている。溺れるイチゴのケーキだった。
サヤカ:彩香の手作りじゃないけど、味も見た目も去年と同じよ。
光雄:すごいな。
万莉:なんでよ。サヤカは万能アンドロイドなんでしょ。もっと美味しいケーキ作れるんでしょ。どうして……。
サヤカ:光雄に頼まれたから。彩香が作ったレシピと去年の写真を見て、真似してみたの。
万莉:でも、サヤカはお母さんじゃない。
サヤカ:うん。でも私は彩香の代わりだから。
万莉:それが嫌なの。お母さんそっくりの顔しないで。お母さんそっくりの声で喋らないで。
サヤカ:万莉……。
光雄:万莉、やめなさい。
万莉:サヤカの顔を見るたびに、声を聞くたびにお母さんを思い出すの。そして思うのよ。お母さんはもういないって。もう死んじゃったんだって。それが嫌なの。
サヤカ:万莉が拒絶しても私はこの家にいるわ。それが彩香との約束だから。
万莉:どうして……。
光雄:万莉は、お母さんのこと忘れたいのか?
万莉:そんなわけないよ。
光雄:だったらいいじゃないか。
万莉:お母さんそっくりなのが嫌なの。
光雄:サヤカとお母さんは全然違うだろ。
サヤカ:(機械音声)3月1日20時ニナリマシタ。録音データヲ再生シマス。
万莉:えっ?
光雄:サヤカ?
彩香:(歌う)ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー。ハッピバースデー、ディア、マーリー。ハッピバースデートゥーユー。
万莉:お母さん……?
光雄:彩香?
彩香:万莉、お誕生日おめでとう。
万莉:うん。
彩香:光雄も元気?
光雄:本当に彩香なのか?
彩香:これを聞いている頃、私はもうこの世にいません。この音声は、生きている私から光雄と万莉への最後のメッセージです。だから、ちゃんと聞いてね。
光雄:ああ。
万莉:お母さんの声だ……。
彩香:二人ともサヤカとは仲良くなったかな?
光雄:うん。仲良くしてるよ。
彩香:お母さんにそっくりで驚いたでしょ?
万莉:すっごく驚いた。
光雄:そうだな。
彩香:サヤカはね、万莉のために作ったの。家事をすることで万莉の成績が落ちないように。
万莉:そんなことで落ちたりしないよ。第一志望の高校、推薦で受かったんだよ。
彩香:まだ中学生の万莉が、急に母親を失うというショックを和らげるために。万莉が目指している高校に合格出来るように。万莉の将来の夢を叶えるお手伝いが出来るように。そのために、私はサヤカを作ったのよ。
万莉:うん。
彩香:……というのは、嘘です。
万莉:はっ?
光雄:ええっ?
彩香:そう言わないと光雄が退院を許してくれないと思ったから。
光雄:おいおいおいおい…。
万莉:お母さん?
彩香:サヤカを作った理由はね、全部私のわがまま。私が死んだ後、光雄が私を忘れるのが嫌だった。光雄が他の女と再婚するなんて考えたくなかった。だから、光雄が私のことを忘れないように、私そっくりのアンドロイドを作ろうと思ったの。
光雄:彩香……。
彩香:不気味の谷なんかジャンプして飛び越えてやる。完璧を目指してやるって。そしたら止まらなくなっちゃって。本気出しちゃった。
万莉:お母さんらしいね。
光雄:本気出しすぎだろ。
彩香:(深呼吸)光雄、愛してるわ。世界中の誰よりも。普通じゃない私に普通の幸せを教えてくれたのはあなたよ。でも、もし他に好きな人が出来たら、サヤカの動作を停止させて、その人と幸せになって。すっごく嫌だけど、仕方ないって諦める。サヤカを停止させる方法は、その時になったらサヤカに聞いて。
光雄:わかった。
彩香:それから、万莉。
万莉:うん。
彩香:愛してるわ。世界で二番目に。あなたは私がいなくても大丈夫。サヤカがいてもいなくても関係ない。なんでも出来るし、なんにでもなれる。私の娘だもん。きっと大丈夫。お父さんのこと、よろしくね。
彩香:あ、お父さんが迎えに来てくれた。あ、万莉もいる。来てくれたんだ。おーい。ってモニターに手を振っても気づくわけないよね。早く行かなきゃ。それじゃ、メッセージはこれでおしまい。二人は私の宝物よ。永遠に。幸せになってね。バイバイ。
少しの間
光雄:彩香……。僕も愛してるよ。
万莉:お母さん、私も大好き……。
サヤカ:(再起動して)……あら? 光雄、なんで泣いてるの?
光雄:(笑)なんでもない。
万莉:(笑)お母さんらしいね。
光雄:そうだな。彩香はこういう人だった。
万莉:うん。
万莉:(M)お父さんのことが大好きで。そんなお母さんが私は大好きだった。
光雄:さ、ケーキ食べるか。
万莉:うん。
サヤカ:その前に、ハッピーバースデーよ。
万莉:(M)ロウソクに火を灯(とも)して、明かりを消して。お父さんと、私と、サヤカ。三人の歌声が重なった。
■10
光雄:(M)その日の夜、僕と万莉は、久し振りに彩香のことを話した。
万莉:お母さんの声、思い出した。
光雄:サヤカの声とは違ってたろ。
万莉:うん。違ってた。
光雄:だから言ったろ。サヤカとお母さんは全然違うって。
万莉:ホントだね。
光雄:髪の色だって、違うし。
万莉:うん。お母さんはどうして、サヤカの髪をお母さんと同じ色にしなかったのかな?
光雄:なんとなく、そう思うだけなんだけど。お母さんは、サヤカをそっくりに作りながら、それでもサヤカのことをお母さんと同じように想ってほしくはなかったんじゃないかな。
万莉:どういうこと?
光雄:つまり、お父さんがサヤカを好きになるのが嫌だったんだよ。
万莉:嫉妬してたの?
光雄:たぶんね。
万莉:自分でそっくりに作ったくせに。
光雄:そっくりに作れば作るほど、その想いは強くなったんだろうね。だから、決定的な違いを作るために、髪の色を変えた。
万莉:そういうことか。
光雄:そんなことしなくても、僕が好きなのは彩香だけなのに。
万莉:再婚はしないの?
光雄:そんな予定はないよ。
万莉:私は別にいいよ。
光雄:お、意外な答え。
万莉:でも、今はいいか。3人で。私と、お父さんと、サヤカ。
光雄:うん。そうだな。お父さんと、万莉とサヤカ。3人で。
万莉:お父さん、私ね……。
光雄:ん?
万莉:ずっと、お父さんに謝りたいって思ってた。
光雄:どうして?
万莉:サヤカを作るために……。私のためにお父さんから、お母さんとの時間を奪ってしまったって思ってたから。
光雄:そうか。そんなこと思ってたのか。
万莉:でも、お母さんの話を聞いてホッとした。なんだ、私のためじゃなかったんたって。
光雄:万莉、よく聞いて。たとえどんな理由があろうと、お父さんもお母さんも、万莉のせいで時間を奪われたなんて絶対に思わない。
万莉:絶対に?
光雄:そうだよ。前にお母さんが、「万莉は私の生命維持装置よ」って言っていたことがある。万莉がいたから、お母さんは生きられた。万莉がいたおかげで、お母さんは死ぬ前にサヤカを完成させることが出来たんだ。
万莉:うん。
光雄:だからそんなふうに思うことはない。だって、万莉は僕と彩香の宝物なんだから。
万莉:うん。
■11
万莉:(M)それから。サヤカは変わらずに家にいて、変わらない毎日が続いている。あの日以来、私はサヤカを見ても悲しくなることはなかった。お母さんはお母さんだし、サヤカとは違う。
万莉:行ってきまーす。
サヤカ:ほら。傘、持っていきなさい。
万莉:うん、ありがと。
光雄:途中まで送ろうか。
万莉:やだよ、恥ずかしいから。
光雄:うわ、ショック。娘が思春期だよ。
サヤカ:光雄、まだ寝癖なおってない。
光雄:え、ホント? 時間ないから車の中で帽子かぶるよ。
万莉:ええぇ、カッコ悪い。
光雄:いいだろ、別に。
サヤカ:帰りは何時頃?
光雄:たぶん、いつも通り。
サヤカ:わかった。
万莉:じゃあ、行ってきまーす。
サヤカ:はーい。
光雄:気をつけろよ。
万莉:うん。
万莉:(M)私はなんでも出来るし、なんにでもなれる。あの日のお母さんの言葉を、私は根拠も無く信じている。いつか私も、お母さんにとっての、お父さんのような人に出会えたらいいな。世界で一番好きな人と結婚して、世界で二番目に好きな子供を産んで。それとも、お母さんやマリ・キュリーのような科学者になって、ノーベル賞を目指すのもいいかもしれない。
万莉:(M)お母さん。私のこと見守っていてね。大好きだよ。
おしまい。
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(2024年7月14日更新)
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