課題テキスト(第1回ふしぎの森の朗読コンテスト)

  • 2025年4月25日
  • 2025年4月26日
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課題テキストは[青空文庫]より転載をさせていただいております。

『第1回ふしぎの森の朗読コンテスト』

課題A 芥川龍之介 作『蜘蛛の糸』(抜粋)

(朗読時間およそ6分)
(録音時に応募名を名乗ってください)

※このページで表示できない文字があり、[カンダタ]と表記しています。

芥川龍之介 作『蜘蛛の糸』(抜粋)

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていたカンダタでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく(かすか)嘆息(たんそく)ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦(せめく)に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊のカンダタも、やはり血の池の血に(むせ)びながら、まるで死にかかった(かわず)のように、ただもがいてばかり居りました。
 ところがある時の事でございます。何気(なにげ)なくカンダタが頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛(くも)の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。カンダタはこれを見ると、思わず手を()って喜びました。この糸に(すが)りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
 こう思いましたからカンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら(あせ)って見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼる(うち)に、とうとうカンダタもくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。カンダタは両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限(かずかぎり)もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで(あり)の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。カンダタはこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦(ばか)のように大きな口を()いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ()れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数(にんず)の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で()れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎(かんじん)な自分までも、元の地獄へ逆落(さかおと)しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと()い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
 そこでカンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に()いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と(わめ)きました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて()れました。ですからカンダタもたまりません。あっと云う()もなく風を切って、独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

青空文庫:芥川龍之介 作『蜘蛛の糸』

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課題B 太宰治 作『黄金風景』(抜粋)

(朗読時間およそ6分)
(録音時に応募名を名乗ってください)

太宰治 作『黄金風景』(抜粋)

 私は子供のときには、余り(たち)のいい方ではなかった。女中をいじめた。私は、のろくさいことは(きら)いで、それゆえ、のろくさい女中を(こと)にもいじめた。お慶は、のろくさい女中である。林檎(りんご)の皮をむかせても、むきながら何を考えているのか、二度も三度も手を休めて、おい、とその度毎にきびしく声を掛けてやらないと、片手に林檎、片手にナイフを持ったまま、いつまでも、ぼんやりしているのだ。足りないのではないか、と思われた。台所で、何もせずに、ただのっそりつっ立っている姿を、私はよく見かけたものであるが、子供心にも、うすみっともなく、妙に(かん)にさわって、おい、お慶、日は短いのだぞ、などと大人びた、いま思っても脊筋(せすじ)の寒くなるような非道の言葉を投げつけて、それで足りずに一度はお慶をよびつけ、私の絵本の観兵式の何百人となくうようよしている兵隊、馬に乗っている者もあり、旗持っている者もあり、銃(にな)っている者もあり、そのひとりひとりの兵隊の形を(はさみ)でもって切り抜かせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食わず日暮頃までかかって、やっと三十人くらい、それも大将の(ひげ)を片方切り落したり、銃持つ兵隊の手を、(くま)の手みたいに恐ろしく大きく切り抜いたり、そうしていちいち私に怒鳴られ、夏のころであった、お慶は汗かきなので、切り抜かれた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしょびしょ()れて、私は(つい)癇癪(かんしゃく)をおこし、お慶を()った。たしかに肩を蹴った(はず)なのに、お慶は右の(ほお)をおさえ、がばと泣き伏し、泣き泣きいった。「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」うめくような口調で、とぎれ、とぎれそういったので、私は、流石(さすが)にいやな気がした。そのほかにも、私はほとんどそれが天命でもあるかのように、お慶をいびった。いまでも、多少はそうであるが、私には無智な魯鈍(ろどん)の者は、とても堪忍(かんにん)できぬのだ。
 一昨年、私は家を追われ、一夜のうちに窮迫し、(ちまた)をさまよい、諸所に泣きつき、その日その日のいのち(つな)ぎ、やや文筆でもって、自活できるあてがつきはじめたと思ったとたん、病を得た。ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、(どろ)の海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかい、それでも仕事はしなければならず、毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよろこびとして感じられ、庭の(すみ)夾竹桃(きょうちくとう)の花が咲いたのを、めらめら火が燃えているようにしか感じられなかったほど、私の頭もほとほと痛み疲れていた。
 そのころのこと、戸籍調べの四十に近い、()せて小柄のお(まわ)りが玄関で、帳簿の私の名前と、それから無精髯(ぶしょうひげ)のばし放題の私の顔とを、つくづく見比べ、おや、あなたは……のお坊ちゃんじゃございませんか? そう言うお巡りのことばには、強い故郷の(なまり)があったので、「そうです」私はふてぶてしく答えた。「あなたは?」
 お巡りは痩せた顔にくるしいばかりにいっぱいの笑をたたえて、
「やあ。やはりそうでしたか。お忘れかもしれないけれど、かれこれ二十年ちかくまえ、私はKで馬車やをしていました」
 Kとは、私の生れた村の名前である。
「ごらんの通り」私は、にこりともせずに応じた。「私も、いまは落ちぶれました」
「とんでもない」お巡りは、なおも楽しげに笑いながら、「小説をお書きなさるんだったら、それはなかなか出世です」
 私は苦笑した。
「ところで」とお巡りは少し声をひくめ、「お慶がいつもあなたのお(うわさ)をしています」
「おけい?」すぐには()みこめなかった。
「お慶ですよ。お忘れでしょう。お宅の女中をしていた――」
 思い出した。ああ、と思わずうめいて、私は玄関の式台にしゃがんだまま、頭をたれて、その二十年まえ、のろくさかったひとりの女中に対しての私の悪行が、ひとつひとつ、はっきり思い出され、ほとんど座に耐えかねた。

青空文庫:太宰治 作『黄金風景』

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課題C 江戸川乱歩 作『指』

(朗読時間およそ5分)
(録音時に応募名を名乗ってください)

江戸川乱歩 作『指』

 患者は手術の麻酔からめて私の顔を見た。
 右手に厚ぼったく繃帯ほうたいが巻いてあったが、手首を切断されていることは、少しも知らない。
 彼は名のあるピアニストだから、右手首がなくなったことは致命傷ちめいしょうであった。犯人は彼の名声をねたむ同業者かもしれない。
 彼は闇夜の道路で、行きずりの人に、鋭い刃物で右手首関節の上部から斬り落とされて、気を失ったのだ。
 幸い私の病院の近くでの出来事だったので、彼は失神したまま、この病院に運びこまれ、私はできるだけの手当てをした。
「あ、君が世話をしてくれたのか。ありがとう……酔っぱらってね、暗い通りで、誰かわからないやつにやられた……右手だね。指は大丈夫だろうか」
「大丈夫だよ。腕をちょっとやられたが、なに、じきに治るよ」
 私は親友を落胆らくたんさせるに忍びず、もう少しよくなるまで、彼のピアニストとしての生涯が終わったことを、伏せておこうとした。
「指もかい。指も元の通り動くかい」
「大丈夫だよ」
 私は逃げ出すように、ベッドをはなれて病室を出た。
 付添つきそいの看護婦にも、今しばらく、手首がなくなったことは知らせないように、固くいいつけておいた。
 それから二時間ほどして、私は彼の病室を見舞った。
 患者はやや元気をとり戻していた。しかし、まだ自分の右手をあらためる力はない。手首のなくなったことは知らないでいる。
「痛むかい」
 私は彼の上に顔を出してたずねてみた。
「うん、よほど楽になった」
 彼はそういって、私の顔をじっと見た。そして、毛布の上に出していた左手の指を、ピアノを恰好かっこうで動かしはじめた。
「いいだろうか、右手の指を少し動かしても……新しい作曲をしたのでね、そいつを毎日一度やってみないと気がすまないんだ」
 私はハッとしたが、咄嗟とっさに思いついて、患部を動かさないためと見せかけながら、彼の上膊じょうはくの尺骨神経の個所を、指でさえた。そこを圧迫すると、指がなくても、あるような感覚を、脳中枢のうちゅうすうに伝えることができるからだ。
 彼は毛布の上の左手の指を、気持よさそうに、しきりに動かしていたが、
「ああ、右の指は大丈夫だね。よく動くよ」
 と、つぶやきながら、夢中になって、架空の曲を弾きつづけた。
 私は見るにたえなかった。看護婦に、患者の右腕の尺骨神経を圧さえているように、目顔でさしずしておいて、足音を盗んで病室を出た。
 そして手術室の前を通りかかると、一人の看護婦が、その部屋の壁にとりつけた棚を見つめて、突っ立っているのが見えた。
 彼女の様子は普通ではなかった。顔は青ざめ、眼は異様に大きくひらいて、棚にのせてある何かを凝視していた。
 私は思わず手術室にはいって、その棚を見た。そこには彼の手首をアルコールけにした大きなガラスびんが置いてあった。
 一目それを見ると、私は身動きができなくなった。
 瓶のアルコールの中で、彼の手首が、いや、彼の五本の指が、白いかにの脚のように動いていた。
 ピアノのキイを叩く調子で、しかし、実際の動きよりもずっと小さく、幼児のように、たよりなげに、しきりと動いていた。

青空文庫:江戸川乱歩 作『指』

課題D 新美南吉 作『うた時計』(抜粋)

(朗読時間およそ7分)
(録音時に応募名を名乗ってください)

新美南吉 作『うた時計』(抜粋)

 ふたりは大きな池のはたに出た。むこう岸の近くに、黒く二、三ばの水鳥がうかんでいるのが見えた。それを見ると少年は、男の人のポケットから手をぬいて、両手をうちあわせながらうたった。

「ひィよめ、
 ひよめ、
 だんご、やァるに
 くウぐウれッ」

 少年のうたうのを聞いて、男の人がいった。
「いまでもその歌をうたうのかい?」
「うん、おじさんも知っているの?」
「おじさんも子どものじぶん、そういって、ひよめにからかったものさ」
「おじさんも小さいとき、よくこの道をかよったの?」
「うん、町の中学校へかよったもんさ」
「おじさん、また帰ってくる?」
「うん……どうかわからん」
 道がふたつにわかれているところにきた。
「坊はどっちィいくんだ」
「こっち」
「そうか、じゃ、さいなら」
「さいなら」
 少年はひとりになると、じぶんのポケットに手をつっこんで、ぴょこんぴょこんはねながらいった。
「坊ゥ……ちょっと待てよォ」
 遠くから男の人がよんだ。少年はけろんと立ちどまって、そっちを見たが、男の人がしきりに手をふっているので、またもどっていった。
「ちょっとな、坊」
 男の人は、少年がそばにくると、すこしきまりのわるいような顔をしていった。
「じつはな、坊、おじさんはゆうべ、その薬屋のうちでとめてもらったのさ。ところがけさ出るとき、あわてたもんだから、まちがえて、薬屋の時計を持ってきてしまったんだ」
「…………」
「坊、すまんけど、この時計とそれから、こいつも(と、がいとうの内かくしから、小さい懐中時計(かいちゅうどけい)をひっぱり出して)まちがえて持ってきちまったから、薬屋に返してくれないか。な、いいだろう?」
「うん」
 少年はうた時計と懐中時計を、両手にうけとった。
「じゃ、薬屋のおじさんによろしくいってくれよ。さいなら」
「さいなら」
「坊、なんて名だったっけ」
清廉潔白(せいれんけっぱく)(れん)だよ」
「うん、それだ、坊はその清廉……なんだっけな」
「潔白だよ」
「うん潔白、それでなくちゃいかんぞ。そういうりっぱな正直なおとなになれよ。じゃ、ほんとにさいなら」
「さいなら」
 少年は、両手に時計を持ったまま、男の人を見送っていた。男の人はだんだん小さくなり、やがて稲積(いなづみ)のむこうに見えなくなってしまった。少年はてくてくと歩きだした。歩きながら、なにかにおちないものがあるように、ちょっと首をかしげた。
 まもなく少年のうしろから自転車が一台、追っかけてきた。
「あッ、薬屋のおじさん」
「おう、廉坊(れんぼう)、おまえか」
 えりまきであごをうずめた、年よりのおじさんは、自転車からおりた。そしてしばらくのあいだ、せきのためものがいえなかった。そのせきは、冬の夜、枯木(かれき)うれをならす風の音のように、ヒュウヒュウいった。
「廉坊、おまえは村から、ここまできたのか」
「うん」
「そいじゃ、いましがた、村からだれか男の人が出てくるのと、いっしょにならなかったか」
「いっしょだったよ」
「あッ、そ、その時計、おまえはどうして……」
 老人は、少年が手に持っているうた時計と懐中時計に目をとめていった。
「その人がね、おじさんの家でまちがえて持ってきたから、返してくれっていったんだよ」
「返してくれろって?」
「うん」
「そうか、あのばかめが」
「あれ、だれなの、おじさん」
「あれか」
 そういって老人は、また長くせきいった。
「あれは、うちの周作(しゅうさく)だ」
「えッほんと?」
「きのう、十なん年ぶりで、うちへもどってきたんだ。ながいあいだ悪いことばかりしてきたけれど、こんどこそ改心して、まじめに町の工場ではたらくことにしたから、といってきたんで、ひと晩とめてやったのさ。そしたら、けさ、わしが知らんでいるまに、もう悪い手くせを出して、このふたつの時計をくすねて出かけやがった。あのごくどうめが」
「おじさん、そいでもね、まちがえて持ってきたんだってよ。ほんとにとっていくつもりじゃなかったんだよ。ぼくにね、人間は清廉潔白(せいれんけっぱく)でなくちゃいけないっていってたよ」
「そうかい。……そんなことをいっていったか」
 少年は老人の手にふたつの時計をわたした。うけとるとき、老人の手はふるえて、うた時計のねじにふれた。すると時計は、また美しくうたいだした。
 老人と少年と、立てられた自転車が、広い枯野(かれの)の上にかげを落として、しばらく美しい音楽にきき入った。老人は目になみだをうかべた。
 少年は老人から目をそらして、さっき男の人がかくれていった、遠くの、稲積の方をながめていた。
 野のはてに、白い雲がひとつういていた。

青空文庫:新美南吉 作『うた時計』

課題E 岡本かの子 作『愛よ愛』

(朗読時間およそ5分)
(録音時に応募名を名乗ってください)

岡本かの子 作『愛よ愛』

 この人のうえをおもうときにおもわず力が入る。この人とのくらしに必要なわずらわしき日常生活もいやな交際も覚束(おぼつか)なきままにやってのけようとおもう。この人のためにはすこしの恥は涙を隠しても忍ぼうとおもう。
 朝夕見なれしこの人、朝夕なにかしら眼新(めあた)らしきものをその上に見出(みいだ)すこの人。世間ではこの人をおとなのなかのおとなのようにいう。けれどもわたしにはこどもに見える。というわたしをこの人はまだこどものように見てなにかと覚束ながる。(たがい)に眼を瞠目(みは)って、よくぞこのうき世の荒浪(あらなみ)()うるよと思う。
 おいおいたがいに無口になって、ときには無口の一日が(すご)される。けれども心のつながりの()い一日では無い。この人が眼で見よと知らする庭の初雪。この人が耳かたむける(のき)(すずめ)にこのわたしも――。
 むかし、いくたりの青年が、この人に(きそ)い負けてわたしのまわりから姿を消したことであろう。おもえば相当に、罪を(にの)うて()るこの人である。けれどもこの人の、いまの静けさに(にくし)みを返す人があろうか。この人のわたしを(かば)い通した永い年月を他所(よそ)ながら眺めてその人達も(うらみ)をおさめて居るに相違あるまい。もういくたりの()の父となって。もし()ってもその人達はこの人になつかしく差出(さしだ)す手を用意して居るに相違ない。そういえばわたしとてよくもこの人を庇い通した――おもえば氷を水に()く幾年月。その年月に涙がこぼれる。
 和服を着せれば幾日でもおとなしく和服を着ている。洋服を着せれば黙って洋服を着て居る。この人はまるで阿呆(あほう)のようだ。そのくせわたしの着物にはいろいろと世話をやく。あらい(がら)のものをわたしが着さえすれば(よろ)んで居る。ときには少女が着でもするような派手な着物を買ってさえ来る。わたしは()く「どうしてこんなものを」この人は答える「うちには娘が()いからお前に着せる。でないと、うちのなかに色彩がなくて(さみ)しい」
 いくら忠告してもこの人がたった一つよこさないものはフランス製の西洋寝巻(ねまき)だ。洋行からわたし達がかえるとき巴里(パリ)に置いて来たこどもが(わか)れしなに父のこの人に買って()れた寝巻だ。厚いラクダの毛。これをこの人は夏冬なしに寝巻に着る。夏は毒ですよ、といってもききはしない。そして枕につくとき()う「こどもはどうして()るかな」
 子を思えばわたしとても寝られぬ夜々(よよ)が数々ある。わたしという覚束(おぼつか)ない母が(ようや)く育てた、ひとりのこども。わたしに許しを得て髪を分けたこども、(いっ)しょに洋行したこども。おとなびてコーヒーに入れる角砂糖の数を()いて呉れるこども。フランスからひとりで英国のわたし達に()いに来たこども。パリでは手を握り合ってシャリアピンに感心したこども。置いて日本へかえってからは寄越(よこ)す手紙ばかりを楽しみにして居るわたし達、冬の(あかり)ともす頃はことさら巴里の画室で故郷をおもうと書き寄越した手紙を読んだわたしは()ぐにもこの人を起こす。いつも寝入ればなかなか起きないこの人がたやすく起きる。そして涙ぐみつつふたり茶をのむ夜ふけ――外にはかすかな木枯(こがらし)の風。

青空文庫:岡本かの子 作『愛よ愛』

『第1回ふしぎの森の朗読コンテスト』

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